Ayumi Ode

Educator, Tokyo Japan

 

私は東京郊外の小さな町で、いつも閉塞感に囚われてながら育ちました。日本では小さい時から、一糸乱れぬまっすぐな列を作って歩くように、先生に指名された時だけ立つように、そして、いつでも同級生たちと仲良くするように、と教えられます。異論があってもそれは外には出さず、自分の興味関心を偽り、同級生たちと同じものを好きになるよう自分に言い聞かせていました。普通と違う意見を言ったらお昼休みに一人ぼっちになってしまうかもといつも恐れていました。

新しい環境の中でなら自分が変わることができるのではないかと思い、高校へ進学するときは中学の同級生が誰も行かない高校をわざわざ選びました。でも、高校を卒業した時、状況は何も変わっていませでした。もっと抜本的な変化が必要なのだと私にはわかりました。何か新しいものに出会う必要がある、海外に行かなくちゃ、と。

私は都内の公立校の出身で、長期の海外経験もありませんでしたし、学校の授業以外に英語を勉強したこともありませんでした。そのため、両親は私が海外に行くことついて最初は大反対でした。泳ぎ方さえ知らないのに底の見えない水の中に飛び込むようなものですから、誰だってひるんで当然です。でも、私は確固たる決意を持ってアメリカのレベルの高い大学に入学するにはどうしたよいかを徹底的に調べ、何とかカリフォルニアにある2年制のコミュニティ・カレッジに進みました。そして、その後4年制の大学に編入しようと考えました。

素晴らしい計画だったか?実際はそんなことありませんでした。まず、コミュニティ・カレッジでは留学生が住む場所を探すのは簡単ではありませんでした。何週間もの間、電燈一つしかない部屋の床で眠りましたし、シャワーを借りようと友人の家に行くのにバスで通ったり、水道水が合わなくてスーパーマーケットからミネラルウォーターのボトルを何本も引きずるようにして持ち帰ったことも度々あります。TOEFLの試験を受けるために毎月サンフランシスコに通わなければなりませんでしたが、試験終了時間が遅いため最終列車に間に合わず安宿に泊まりました。政治学の授業では、アメリカ人にとっては常識のようなことを私は知識としてまったく持っていませんでした。2年間、私は毎日のようにエッセイを書く練習をし、オールAを取るために、教授と話せるオフィスアワーの機会は全部利用しました。2年後、コロンビア大学バーナード校から合格をもらい、それまでのすべての苦労と眠れない夜は報われたのです。振り返ってみると、周りの人たちの期待にそむいてまで、そんなに前のめりになって困難に立ち向かったことはありませんでした。それ以来、私は後ろ向きの気持ちになったことは一度もありません。

皮肉にも、卒業後は日本に帰国することになりました。私と同じように窮屈な思いをしている人は日本に沢山いると気づいたからです。私は自分の留学経験についてブログを書き始めました。そのブログを読んで誰か一人でも自分と同じように閉じ込められた世界から脱出できるといいなと思っていたのです。書き始めるとすぐに日本人の若い読者からメールをもらうようになりました。みんなアメリカの大学で学びたいと思っており、そのための手段を教えてくれてありがとうと言うのです。そのうち、数人の学生の相談にのるようになり、アメリカのアイビーリーグの大学に進学する学生もいました。私にはもっともっとできることがあると確信しました。

今、私は卒業後に入社した教育・人材のスタートアップ(Alpha Academy)でこうした仕事を続けています。このスタートアップでは、海外留学(高校・大学・大学院)や就職・転職のサポート、一人ひとり自分自身の目標に向けた戦略立案等のサポートまでしています。日本には本当にたくさん、才能があって野心的で個性豊かで、最初の大事な一歩を踏み出そうとしている人たちがいます。私は自分が一歩踏み出すチャンスがあったことに感謝しています。そして、自分の経験を活かして、他の人が同じように一歩踏み出せるよう応援していきたいです。

 

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※日本語訳:Erena Niwa